小説 大劇場アンダーグラウンド居酒屋「世今堂」物語 前回へ
第三回 「風屋」にて
その稽古場に顔を出すのは五年ぶりであった。
JR大井町駅東口へ出ると、目の前に品川区の区民ホールが入った建物がある。その裏手の路地を入り、少し歩くと小さな雑居ビルがあった。一階には昔から「風屋」というもつ焼き店が入っている。まだ、開店時間の五時には早く、暖簾が中に入っている。店の脇に幅の狭いシャッターがあり、半分ほど閉まった中に階段が見える。上がってゆくと、二階の踊り場の左手に「子猫荘」という麻雀店の自動ドアがあり、さらに上がった三階がビルのオーナーの住居部分である。三階の踊り場に上がると、左手に玄関ドア、正面にはアルミ製の扉がある。三階までは建物の中に階段があるが、三階から四階に上がるには、そのアルミ製の扉の外、建物の裏側にへばりつくようにある外階段を上がらなければならない。外階段を上がる時、甲高い金属音があたりに響く。その音を聞きつけてか、四階の扉が開き、見覚えのある浅黒い顔がそこで笑っていた。
笑顔の主に導かれ中に入る。床には、何ミリかの厚さの化学繊維系のパンチと呼ばれる『布』が引き詰められている。舞台の床に使われる素材である。左手の壁は天井まで作りつけの棚になっている。照明器具や衣装ケース、様々な芝居の小道具の入った箱、大工道具やペンキの缶の入った箱もある。典型的な小劇団の稽古場の風景である。
自前の稽古場を持っている小劇団は珍しい。多くの劇団が安い公共施設を時間で借りて、稽古場から稽古場へと移動しながら稽古をしている。この劇団「飛行風船」の場合は幸せである。代表者の父親がこのビルの持ち主であり、外階段という構造上の問題から借り手のつかなかった四階を半ば無理矢理占拠してしまったのである。劇団がこの場所を得て十年が過ぎていた。私はこの劇団に所属していた訳ではなかった。劇団に三本の戯曲を提供しただけの存在であった。しかし、団員たちは、私を仲間として扱ってくれた。それは楽しい数年間であった。
「頼みってなんだい?」
彼は昔から率直な人間だった。「世今堂」に行ってみたいという気持ちを抑えることが出来なくなっていた私は、その「会員制倶楽部」に入ることを考え、会員名簿と規約のコピー、申込書などを手に入れた。そして、その名簿のコピーの中に、劇団「飛行風船」代表の肩書きと名前を発見したのであった。
彼は、快く推薦者の欄に署名捺印をしてくれた上で、名簿に載っていた舞台監督に電話をしてくれた。ほどなく印鑑を持って、その舞台監督が稽古場まで来てくれた。お互いの近況などを一通り話してから、二人目の紹介者欄に署名捺印をしてもらった。そして、一階のモツ焼き店「風屋」が開く時間になっていたので、三人で飲むことにした。もちろん、私のおごりである。
開けたばかりの店に、一人で入ってゆくと「風屋」の店長が頬笑んだ。
何か特別に言う訳ではないが、私を覚えていてくれたことが、こちらにちゃんと伝わってくる。後から劇団代表と舞台監督が入ってくる。三人の揃った姿を見ると、黙ってぬか漬けをテーブルに出してくれた。特別サービスである。寡黙な店長の気持ちがこちらに伝わってきて、快い。
「劇団の稽古場の下がモツ焼き屋というのは、あまりにも都合が良すぎる話だよなあ。」
舞台監督が笑いながら、ホッピーの入ったグラスを頬に当てる。
「でも、最近の若い劇団員たちは、そうでもないんだ。昔ほど飲まなくなったよ。中にはモツの臭いが駄目だなんて、不埒な娘までいる。稽古場に来る時は息を止めながら階段を上がってくるとか言うから、除名にしてやろうかと思ったよ。」と劇団代表が笑いながら嘆いた。彼は焼かれたモツ焼きを串から全部はずして、一つずつ食べ易いようにしている。貧しい役者たちは、つまみ代を節約するため、モツ焼きをバラバラにして少しづつ食べる。だから、串からモツを全部はずして食べることを「役者食い」と呼ぶのだそうである。
舞台監督は「世今堂」には、一度しか行ったことがないという。何を食べてもうまく、信じられないほど安いのだそうである。
「名物店長がいてね、客たちが〈ひかるさん〉って呼んでいたよ。昔、照明屋だったから〈ひかる〉なんだそうで本名は解らない。ある大劇場で仕込みをしている時、大怪我をして引退したらしいんだ、うるさく言う訳じゃないが、どくとくの緊張感を周囲に漂わせている人で、店のやり方に従わない人間は、どんなに偉い立場の相手でも出入り禁止にしてしまうらしい。」
ホッピー数杯と樽酒を飲んで「風屋」を出たのは午後九時頃であったろうか。店を出る時、舞台監督が思い出したように言った。
「ひかるさんは、高い脚立から落下した部下の身体をかばって、自分が大怪我をしてしまったらしいよ。」
ひかるさんに会ってみたいと思った。
(つづく)
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第三回 「風屋」にて
その稽古場に顔を出すのは五年ぶりであった。
JR大井町駅東口へ出ると、目の前に品川区の区民ホールが入った建物がある。その裏手の路地を入り、少し歩くと小さな雑居ビルがあった。一階には昔から「風屋」というもつ焼き店が入っている。まだ、開店時間の五時には早く、暖簾が中に入っている。店の脇に幅の狭いシャッターがあり、半分ほど閉まった中に階段が見える。上がってゆくと、二階の踊り場の左手に「子猫荘」という麻雀店の自動ドアがあり、さらに上がった三階がビルのオーナーの住居部分である。三階の踊り場に上がると、左手に玄関ドア、正面にはアルミ製の扉がある。三階までは建物の中に階段があるが、三階から四階に上がるには、そのアルミ製の扉の外、建物の裏側にへばりつくようにある外階段を上がらなければならない。外階段を上がる時、甲高い金属音があたりに響く。その音を聞きつけてか、四階の扉が開き、見覚えのある浅黒い顔がそこで笑っていた。
笑顔の主に導かれ中に入る。床には、何ミリかの厚さの化学繊維系のパンチと呼ばれる『布』が引き詰められている。舞台の床に使われる素材である。左手の壁は天井まで作りつけの棚になっている。照明器具や衣装ケース、様々な芝居の小道具の入った箱、大工道具やペンキの缶の入った箱もある。典型的な小劇団の稽古場の風景である。
自前の稽古場を持っている小劇団は珍しい。多くの劇団が安い公共施設を時間で借りて、稽古場から稽古場へと移動しながら稽古をしている。この劇団「飛行風船」の場合は幸せである。代表者の父親がこのビルの持ち主であり、外階段という構造上の問題から借り手のつかなかった四階を半ば無理矢理占拠してしまったのである。劇団がこの場所を得て十年が過ぎていた。私はこの劇団に所属していた訳ではなかった。劇団に三本の戯曲を提供しただけの存在であった。しかし、団員たちは、私を仲間として扱ってくれた。それは楽しい数年間であった。
「頼みってなんだい?」
彼は昔から率直な人間だった。「世今堂」に行ってみたいという気持ちを抑えることが出来なくなっていた私は、その「会員制倶楽部」に入ることを考え、会員名簿と規約のコピー、申込書などを手に入れた。そして、その名簿のコピーの中に、劇団「飛行風船」代表の肩書きと名前を発見したのであった。
彼は、快く推薦者の欄に署名捺印をしてくれた上で、名簿に載っていた舞台監督に電話をしてくれた。ほどなく印鑑を持って、その舞台監督が稽古場まで来てくれた。お互いの近況などを一通り話してから、二人目の紹介者欄に署名捺印をしてもらった。そして、一階のモツ焼き店「風屋」が開く時間になっていたので、三人で飲むことにした。もちろん、私のおごりである。
開けたばかりの店に、一人で入ってゆくと「風屋」の店長が頬笑んだ。
何か特別に言う訳ではないが、私を覚えていてくれたことが、こちらにちゃんと伝わってくる。後から劇団代表と舞台監督が入ってくる。三人の揃った姿を見ると、黙ってぬか漬けをテーブルに出してくれた。特別サービスである。寡黙な店長の気持ちがこちらに伝わってきて、快い。
「劇団の稽古場の下がモツ焼き屋というのは、あまりにも都合が良すぎる話だよなあ。」
舞台監督が笑いながら、ホッピーの入ったグラスを頬に当てる。
「でも、最近の若い劇団員たちは、そうでもないんだ。昔ほど飲まなくなったよ。中にはモツの臭いが駄目だなんて、不埒な娘までいる。稽古場に来る時は息を止めながら階段を上がってくるとか言うから、除名にしてやろうかと思ったよ。」と劇団代表が笑いながら嘆いた。彼は焼かれたモツ焼きを串から全部はずして、一つずつ食べ易いようにしている。貧しい役者たちは、つまみ代を節約するため、モツ焼きをバラバラにして少しづつ食べる。だから、串からモツを全部はずして食べることを「役者食い」と呼ぶのだそうである。
舞台監督は「世今堂」には、一度しか行ったことがないという。何を食べてもうまく、信じられないほど安いのだそうである。
「名物店長がいてね、客たちが〈ひかるさん〉って呼んでいたよ。昔、照明屋だったから〈ひかる〉なんだそうで本名は解らない。ある大劇場で仕込みをしている時、大怪我をして引退したらしいんだ、うるさく言う訳じゃないが、どくとくの緊張感を周囲に漂わせている人で、店のやり方に従わない人間は、どんなに偉い立場の相手でも出入り禁止にしてしまうらしい。」
ホッピー数杯と樽酒を飲んで「風屋」を出たのは午後九時頃であったろうか。店を出る時、舞台監督が思い出したように言った。
「ひかるさんは、高い脚立から落下した部下の身体をかばって、自分が大怪我をしてしまったらしいよ。」
ひかるさんに会ってみたいと思った。
(つづく)
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